「説教浄瑠璃」五代目・若太夫の墓

「説教浄瑠璃」五代目家元・若太夫(諏訪仙之助)の墓。「説教浄瑠璃」は、仏教布教の一手段である「節談説教」から派生し、寛永年間(1624~1644)頃からは、三味線を伴奏とした「語り物」として流行しました。その後一時衰えましたが、寛政年間(1789~1801)頃に、初代・薩摩若太夫によって再興されました。その五代目にあたるのが、下板橋中宿(仲宿)に居住するとともに同地を拠点として活躍した五代目若太夫〔文化8(1811)~明治10年(1877)〕です。五代目は、最盛期には多摩地域や埼玉県域に58人もの弟子を抱えていたとされ、「説教節史上の功績者」とも評されています。

現在、東京都指定無形文化財(芸能)である、三代目・若松若太夫(小峰孝男)と その師匠である二代目・若松若太夫(故・松崎寛)の芸能上の祖に当たります。五代目・若太夫は没後、旧下板橋宿にあった乗蓮寺に葬られましたが、昭和46年からの当寺の赤塚移転に伴い、墓も当地に移設されました。

蓮華の上に六角柱という珍しい形状の墓石には、「恵生芳願信士」という若太夫の 戒名と、「何処となく 行先広し 穐の風」という辞世の句、さらには妻・ゑんの 戒名、娘・千代、孫・はつ、古石という人物による追悼の句がそれぞれの面に刻まれています。

当墓石は、下板橋を拠点としていた若太夫の活動によって、「説教浄瑠璃」が、幕末維新期に周辺地域へと伝播していく状況を裏付ける歴史的資料であるということから、平成22年に板橋区の登録有形文化財となりました。